沈黙する愛と平和は言葉以前の領域に根ざした現象であり、語ることによってではなく、むしろ語ることの放棄によってその輪郭が浮かび上がる。
東洋思想が重んじる無為自然の精神は、この沈黙性に通じ、つまり、愛も平和もそれを表象しようとする言語的操作を超えて、存在の深層での非意志的なものである。
この沈黙は、単なる言葉の不在ではなく、それはむしろ、分節化される前の全体性、まだ世界が「主語と述語」に裂かれていない地点において生起される。その場の愛は、自己と他者という二項対立の枠を超えて、関係性の場そのものとして現れるだろう。自己が対象としての他者に向かうのではなく、あらゆるものがあらゆるものを通じて自己を明らかにするような、関係的存在論の只中で演出される愛である。
沈黙する愛は、所有は欲望、あるいは意図的な献身すらも含まない。自己と自己として主張される前、言葉が価値を配列する前の、開かれとしての愛である。する→あるへの愛になる。
例えば禅僧が茶をたてる所作、書家が筆を運ぶ瞬間、あるいは山中にて静かに座す姿に滲み出るように、ただ空間を満たしていく。平和もまた同様に、外的な秩序や合意の産物ではない。沈黙する平和とは、調停された状態ではなく、対立が成立しえない場の感覚である。それは内面的な闘争が沈静し、思考が自己を語るのを止めたとき、ふと現れる。争いを超えるというよりも、争いという概念が意味を失う地点において顕在する。そのようなものが沈黙するということになる。
無心によって導かれるこの平和は、現象の背後にある動じなさとしての静けさであり、万物と響き、合うような深い共振状態になる。現代において愛と平和は、倫理的理想や政治的スローガンの基、再定義され、実存から切り離されてしまっている。しかし言葉によって操作された理念は、つねに対立や誤解の種を孕む。愛を語るがゆえに孤独が生まれ、平和を叫ぶがゆえに分断が生まれる。この逆説に対する我々の応答の一つは、沈黙する愛と平和を考えることになる。
つまり、沈黙とは、無関心でも逃避でもなく、むしろそれは、あらゆる判断を中断し、現象の只中に身を預けるラディカルな在り方へいくこと。そのとき、愛は誰かを愛するという動作を超えて、すべてが愛であるという沈黙の了解へと寛容する。平和もまた、平和であろうとする意志の力を抜いたところに、すべてに与えられている状態として、平和を享受されるだろう。
沈黙する愛と平和とは、存在の奥底で常に流れているが、ただ我々がそれに沈むことを忘れているに過ぎない。沈黙への回帰は、私たちを倫理や思想の次元から、存在への倫理、すなわちただ在ることの倫理へと導いていく。
